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渡辺宏の生い立ちが壮絶!「エリートから借金地獄の末殺人者に」ふじみ野市鈴木純一医師銃殺

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埼玉県ふじみ野市で1月27日に起きた人質を取った立てこもり事件、渡辺宏(わたなべひろし)容疑者(66)は「母親が死んだので線香をあげに来てほしい」と言って主治医だった鈴木純一医師(44)ら7名の医療関係者を自宅に呼び、無残にも散弾銃で鈴木医師の尊い命を奪ってしまいました。

渡辺宏容疑者が歩んできたこれまでの人生をたどり、なぜ殺人者にまで行きついたのかをお伝えします。

渡辺宏容疑者の生い立ち

渡辺容疑者の生まれ故郷、幼少期、小中学校時代、高校から就職までをたどっていきます。

渡辺宏容疑者のふるさと

一九五五年十一月、渡辺は下町情緒溢れる東京都江戸川区に生まれた。町工場が点在し、職人たちが路地を忙しく行き交う。渡辺家も例外ではなく、自宅の敷地内に建てられた小屋からカンカン、カンカンという金属音が鳴り響いていた。

引用元:週刊文春

1955年というと戦後ちょうど10年たったころです。「下町情緒溢れる東京都江戸川区に生まれた。町工場が点在し、職人たちが路地を忙しく行き交う。」昭和の映画に出てきそうな風景を思い起こして年配の方なら何とも言えないノスタルジーを感じるのではないでしょうか?その頃の東京ののどかな下町で渡辺宏容疑者は生を受けました。

渡辺宏容疑者の両親は働き者

「お父さんは鍛冶屋。医療用の十から十五センチくらいの大きさのピンセットを作り、親族が経営する医療製作所に卸していました。

お母さんは洋服の仕立て屋で働いていて、腕は良かった。(渡辺家の知人)

引用元:週刊文春

父も母も働き者だった様子がうかがえます。父親が医療用ピンセットを作っていたのに、後年医療関係者をいたぶり続けるようになるとは皮肉ですね。母親は腕が良かったので結構注文も多く、収入もあったのではと思われます。

渡辺宏容疑者の幼少期

宏くんは子供の頃、野球ボールを壁に当てて遊んでいた(渡辺家の知人)

引用元:週刊文春

渡辺宏容疑者の学校に上がる前の幼少期について詳しくわかりませんが、普通の子供たちのように友達同士でいろんな遊びを楽しむことはなかったようです。ただ、両親がちゃんと働いていたので、生活に困ることはなく可愛がられながらすくすくと育ったであろうことは想像がつきます。

渡辺宏容疑者の小中学校時代は一人ぼっち

引用元:週刊文春

渡辺宏容疑者の小学校と中学校時代の写真です。何年生かはわかりませんが、結構しっかりした顔立ちで普通の少年の姿です。

小中学校時代の同級生によると、渡辺宏容疑者は当時目立たない存在だったようです。学校でも打ち解けられる友人らしい友人はできなかったのでしょう。

また顔が母親によく似ていたと話しています。母親は自分に似ている息子を溺愛していたことが想像つきます。

渡辺宏容疑者の高校時代は勉強できた!?

渡辺容疑者は彼は地元の中学高校を出た後、江戸川信用金庫(現・朝日信用金庫)に就職しました。地元の有力金融機関へ就職できたくらいなので、高校の成績は中以上あるいは結構できたのかもしれません。

江戸川信用金庫は平成14年1月に共積・文京信用金庫とともに朝日信用金庫と合併し、朝日信用金庫となります。

渡辺宏容疑者は信金職員になっても父母に甘やかされていた

高校卒業後に江戸川信用金庫(現・朝日信用金庫)に就職しました。銀行に入れば一生安泰と言われていた時代、金融機関に就職したのですから、息子は渡辺家の誇りでした。

「通勤は車を使っていて、夕方帰宅すると家の前でクラクションが鳴る。すると父親が車庫のシャッターを開ける。お母さんはいつも『うちの宏が、宏が』と可愛がっていた。一人っ子だから甘やかされていた」と渡辺家の知人の話として週刊文春が伝えています。

エリート職員渡辺宏容疑者は26歳でマイホーム新築

順風漫歩の社会人生活を歩んでいた渡辺容疑者は1981年7月、26歳の時に家族のためにと自宅を取り壊して1,345万円のローンを組んで木造二階建てのマイホームを新築します。ただし土地は借地でした。

いくら信金職員と言っても東京のど真ん中に木造二階建てとはちょっと無理をしたのではないでしょうか。信金の優遇があったのかもしれませんが。

エリート職員渡辺宏容疑者が懲戒解雇された理由は「使い込み」

自分の現状も考えず先も見ずに経済的に無理をしたせいか、渡辺容疑者は会社の金を使い込んでしまいます。当然使い込みがバレないはずがなく、信金を懲戒解雇されて幸福の絶頂から地獄へと向かっていきます。

渡辺宏容疑者に借金地獄が始まった理由

信金を解雇された渡辺容疑者は新築のマイホームでの生活を維持し、ローンを返済する経済的余裕がまったくなくなり、自宅を売却することになります。

収入の道を断たれた渡辺容疑者はあちこちから借金をせざるを得なくなります。その借金の返済もままならず、夜逃げするようにどこかへ行ってしまったと知人が話しています。

貧困生活のせいか、やがて両親は離別し、渡辺容疑者は母親と2人で暮らし始めます。

渡辺宏容疑者が散弾銃を手に入れたのは借金取り撃退のため?

週刊文春によると、渡辺宏容疑者が散弾銃を手に入れたのは2000年3月21日でした。

当時も生活は苦しくあちらこちらから借金しながら、約6万円で中古の狩猟用散弾銃レミントンM870 を購入しています。店の関係者によるとローンで購入したものの頭金の2万円しか払わなかったそうです。「銃は初めて購入する」と言っていたようなので、狩猟や射撃の経験はなかったようです。

さらに2008年11月にはベレッタ製の散弾銃も購入しています。

では何のために銃を購入したのでしょう?
・借金取りに追われていたので威嚇撃退のため
・銃を持つことで高揚感や安心感を得たかった
・子供の頃から銃にあこがれや持ちたい願望があった
などが考えられますが、身に染みて危機感を感じていた借金取りへの備えだったのかもしれません。

母親の闘病にすべてをささげた渡辺宏容疑者の生活

その後渡辺宏容疑者と母親は故郷の地から埼玉県富士見市に移り住みます。

子供の頃から自分を溺愛してくれた母親が生きていく上での心の支えであるだけでなく、継続的収入のなかった渡辺容疑者にとって母親の年金収入は命をつないでいく支えになっていたに違いありません。

その母親が病気になり、その介護のため自治会をはじめ地域との付き合いを断って暮らします。唯一の地域とのつながりは、母親の治療のための介護施設や病院でした。このころ渡辺家は生活保護を受けており、治療代は免除されていて病院を使い放題だったのです。

次々と病院でトラブルメーカー

それらの施設に対し、母親第一の渡辺容疑者は自分の意に染まないことがあると高圧的な態度に出て暴言を吐き続けるようになります。病院スタッフに母親を先に診るように強要したり、スタッフの受け答えが気に入らないと「母親に失礼だろう」と怒鳴りつけたりします。

13,4年前からふじみ野市内の総合病院に現れるようになった渡辺宏容疑者に対し同病院関係者が次のように振り返っています。

「母親は肺に持病があり、足の治療で整形外科にもかかっていました。診療が5分でも遅れると、所構わず『遅い!』と激高。予約なしで来た時も『うちの母親を先に診てくれ』突きつけてきた。病院内では危険人物として情報が共有され、職員同士で警戒していました」
引用先:週刊文春

渡辺宏容疑者はこの総合病院以外にも母親を連れて行ったこともあり、同様のトラブルを起こしまわっています。また、介護業者とも母親のお風呂の入れ方などでもめ事を起こしています。

その後、地域医療の担い手である富士見在宅クリニックの鈴木純一医師が渡辺宏容疑者の母親を担当するようになります。

母を治そうとすがった魔除け「1万円の盛り塩を2個」

母親の病気が重くなり、ものを食べられなくなったり、排泄がうまくいかなくなってきました。そこで渡辺宏容疑者は「在宅で胃ろうにしたい。最後まで自宅で見てほしい」と鈴木医師に要望しました。

鈴木純一医師は高齢者の負担になるような治療は勧めない方だったので、治療方針を巡って意見が合いませんでした。

医者の治療では回復が見込めないと思った渡辺宏容疑者は、魔除け用として販売されている1個1万円もする盛り塩を2個買って部屋に備えます。お呪いのようなもので病気が快復するはずがありません。藁をもすがる気持ちはわからなくもありませんが、正常な判断ではない状態です。

ところが渡辺容疑者は1月24日に「鈴木先生の治療方針に納得いかない点がある」と医師会に電話しています。まるで母親が回復しないのは鈴木医師の治療に原因があると言わんばかりです。その2日後の26日に母親は永眠しました。そのころすでに鈴木医師に恨みを募らせていたことが考えられます。

最後の頼み心臓マッサージが叶わず暴発

母親が亡くなった翌日、渡辺容疑者は鈴木医師ら病院関係者7人を「線香をあげに来てくれ」と自宅に呼び出します。その時、お呪いの盛り塩と散弾銃2丁が母親の亡き骸に供えられていました。

やって来た鈴木医師に対し「まだ心臓マッサージで生き返るかもしれない」と言って、死後30時間経った遺体へのマッサージを要請します。丁寧に断った鈴木医師に対し、「母親を助けようとしないとは許せない」とでも思ったのでしょう。渡辺容疑者は散弾銃を手に取り発砲します。

鈴木医師は即死だったと報道されています。献身的に地域医療に尽くされてきた鈴木純一医師に心より哀悼の誠をささげます。

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